そよぐ風が、さらりと薙の髪を攫っていく。
遠く、もっと遠く、その先へ。
綺麗な景色だ。
深く濃い常葉の、緑の園が眼下に広がる。
あの時はそんな余裕もなかったけれど、今こうして高台の上から眺める天照郷という場所は、なんて美しい場所なのだろうと思う。
美しい、と、それは統計学的にはじき出して最適と思われる言葉で表現しただけの単なる感想なのかもしれないが、その根拠は感情に由来するものなのだろうと、今なら少しだけわかりそうな気がしていた。
ここは豊が生まれ育った地だ。
彼の住む場所、彼の守る場所、彼が、僕の元へ訪れるまで過ごしていた場所。
その場所に今、僕は立っている。
サクサクと草を踏む音を背後に感じて振り返った。
「こんにちは」
まだ少し戸惑うような視線。
豊は、一瞬立ち止まってから、ゆっくりと薙の元まで歩み寄ってきた。
月詠の一件で、天照郷はようやくその方針を定めたらしい。
今、森は特級犯罪人として追われる身だ。呉の奪還も完了していない。
戦闘終了後色々とバタつき、その後も状況説明などに時間を取られて、豊と薙はまともに口を聞くこともままならないまま、日々は足早に過ぎていった。
気づけば季節はすっかり冬の気配に変わっていた。
この一年の間に、随分遠くまで来たと思う。
「ここだったんだね」
柔らかな声に耳をくすぐられるようで、薙はまたスッと郷の景色に視線を戻す。
ためらって、傍に立った豊も、同じ様にしているようだった。
「その、調書はもう、終わったの?」
何から話したものか迷っている気配に、瞳を閉じた。
冷たい風を頬に感じる。心地よい、北向きの風だ。
「―――何故だ」
「えっ」
薙は問いかける。
「どうして来た」
「えっと、その、探してたんだ、それで、ここにいるんじゃないかなあと思って」
「違う」
開かれた金色の瞳が、不意に振り返って豊を見詰めた。
瞬間、僅かに体がビクリと震えて、傷跡はまだ残されたままなのだなと知る。
あの日、豊は怯えきった瞳と姿をして、学院から出て行った。
結局僕らでなく彼を選んだのだと、そう思うことで踏ん切りをつけようとしていた。なのに、何故。
「僕が恐ろしいか?」
豊は瞳を見開いて、それから少しだけ顔を俯けた。
「秋津」
「―――怖い、よ」
かすかな声。
それは想像以上に薙の胸を貫く。
醒めた微笑が口の端に浮かんでいた。化物の因子をこの身に孕むものには、ふさわしい評価じゃないか。
「でも」
ふと表情を戻す。
豊が、それでも顔を上げていた。
「でも、それだけじゃないんだ」
「何?」
鳶色の瞳は真っ直ぐに薙を見詰めていた。
僅かも曇りのない、綺麗な眼差し。
薙の心は、いつの間にか取り込まれてしまう。
「わかったんだ」
豊の声は静かだった。
まだ恐れている、不安である、それは確かだ。けれど、それだけじゃない。
「俺は、飛河が怖いよ」
掌をぎゅっと握り締める。
「正直―――どうしてあんな事をするのか、乱暴な事ばかりするのか、君が何を考えているのか、俺にはよくわからないし、今もまだ確信がもてたわけじゃない、けど」
ひと息に話して、大きく息を吸いこんだ。
豊はそうやって何かを必死に堪えているようだった。
見詰める金の瞳が、すうと細くなる。
薙の胸の奥で何かの欠片がチリチリと音を立て続けていた。
「でも、俺は」
瞳を閉じて、そして、ゆっくり開いた。
豊は両足でちゃんと立って、真っ直ぐに薙を見詰め返していた。
「飛河の事が、知りたい」
「何」
思わず口をついて言葉が飛び出して、そんな自分に薙自身が一番驚かされる。
僕を知りたい?
君が?
鳶色の瞳が冬の日差しを反射してキラキラ輝いている。
これまでに見たことのない色だ。
いつも哀しげで、苦しげだった、そんな君ばかり僕はおぼえている。でも、今の君はそのどれでもない。
「もっと、ちゃんと、分かり合いたい、話がしたい、俺は飛河を知りたいんだ」
「相互理解、という事か?」
交歓留学という意義での、と、自然と眉間が寄っていた。
厳しい表情の薙に、豊は不意に微笑みかける。
それは、ごく自然に生まれた、柔らかな笑顔だった。
薙がハッと息を飲むのがわかった。
「違うよ、俺は、飛河薙を知りたいんだ」
「僕、を?」
「―――そうだよ」
すっと片手を差し出す。
「遠回り、だったけど、俺も逃げてばっかりだったけど」
でもそれだけじゃ、もう嫌だから。
色々な事があって、彼から遠く離れて、やっとたどり着く事が出来た。
蘇る思い出は辛いばかりだけど、だからといって全部切り捨ててなかった事になんてできない。
薙は呆然と立ち尽くしていた。
月詠学院に行ったこと、ペンタファングの一員として戦った事、その全部を後悔なんてしていない。
「出会えてよかったって、思えるようになりたいんだ」
茶色の髪を風が攫っていく。
さらさらと揺れるその下の瞳が余りに真っ直ぐすぎて、直視し続けるのが辛いようだった。
けれど。
薙の内側で、欠片が煌めいていた。
鼻の奥がつんとする。
忘れかけていた生理現象に、訳もわからないまま、気づけば―――するりと、雫が頬を伝っていた。
目の前で豊の瞳が見る見る大きく見開かれて、薙は驚いて頬をこする。
流れたのは涙だった。
ただ一筋、けれど、もう長い事流した事のない、温かな心の雫だった。
「ひ、かわ」
そっと歩み寄ってきた豊が、差し出していた掌でそれをぬぐう。
その行為にもっと驚いて、思わず半歩ほど下がりかけて、薙は立ち止まった。
「僕は、一体」
かすかな声に間を置いて、じっと顔を見詰めていた豊は、不意にふわっと花開くように笑っていた。
頬が赤い。
瞳の端には、なぜか光るものが浮かんでいた。
一所懸命に目元をぬぐって、おかしいね、何で俺まで泣いてるんだろうねと苦笑いを浮かべている。
その―――あまりにも、温かな姿。
湧きあがる思い。
愛しいと。
ずっと意味を成さなかった胸の欠片たちが、ひとつの言葉をよみがえらせる。
それは水底から浮かび上がってくるような、何かが満ちてくるような、不思議な感覚だった。
なくしていたものが急に戻ったようで、まだその予感が確信に繋がらない。
「これで、一つ目だな」
「な、にが」
「飛河の事、一つ知った、涙が暖かい人だって」
薙は立ち尽くしたまま、戸惑い、動揺して、それでも―――恐る恐る伸ばした手で、豊の腕を掴んでいた。
今までにしたことのない触れ方で。
豊がふっと顔を上げる。
そのまま、暫らく困って、そっと指先を絡ませると、手をつなげた。
「秋津君」
かすれた声。こんな風に喋る僕を、僕は知らない。
「君の、手は―――暖かかったんだな」
蘇る思い出が胸を貫いて、混乱したまま急に不安定になった足元をしっかりと支えてくれるように、掌はぎゅっと薙の手を握り返してくれた。
「うん」
豊の頬にまた涙が伝う。
けれど、これは、今までの涙と確実に違うものであると、薙は初めて理解できた。
胸を貫いて零れ落ちていった欠片のなくなった内側は、とても澄み切っていて、そして知らない世界が広がっているようだった。
言葉が勝手に飛び出してくる。
「すまない」
豊はまた泣いた。
「それと―――ありが、とう」
僅かに首を振って、最後の涙を掌で拭う。
寒気を孕んだ風の中で、それでもさやさやと優しくそよぐ足元の草の擦れ合う響きがやけに愛しく思えた。
白い日差しは、世界をこんなにも鮮やかに照らし出す。
つなぎあった温もりと、感じる新しい息吹の予感に、薙も豊もいつまでも動く事ができなかった。
ただ、重なり始めた世界は、これからもっと多くの事を伝え合うのだろうと、予感めいた思いだけが確かな質量を伴って今ここに存在していた。
新しい年の足音は、すぐ傍まで近づいてきていた。